そして銀座 鮨 きよ本の清本親方、食材の準備や仕込み、そして石巻へ出発当日は早朝5時からの最終仕上げまで、老人ホームに訪問するたび後方支援頂いた鮨職人の石田さん。
長きに渡りご支援、ご協力を頂きありがとうございました。
ミニ縁日の準備中には我々が幾度となく訪問してきた、東松島市矢本運動公園仮設住宅の自治会長をされ、その後は同市内で580世帯もの集団移転地区のまちづくり協議会をまとめ、大規模な集団移転の取り組み事例として各方面メディアでも取り上げられている、東松島市復興住宅団地のあおい地区。現在はこのあおい地区会長をされている小野竹一さんが差し入れのジュースを持ってきてくれました。東松島市在住の小野さんが突然来訪し驚いた私ですが、なんと数年前からこの日ミニ縁日を開催した広渕保育所の理事もされていると聞き、二度驚かされました。小野さんのバイタリティーには敵いませんね(笑)写真はミニ縁日準備中だったため撮ってなく、数年前に小野さんが東京へ来られた時に一緒に撮った写真を。小野さん、冷たいジュースありがとうございました。またこちらで美味しいものを食べましょう!
あおい地区のまちづくりの様子が良くわかる資料です。
それでは2日間の活動レポートです。
初日8月19日(土)の1ヶ所目は石巻市広渕保育所でミニ縁日を開催しました。
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2011年7月に宮城県気仙沼市で開催した第3弾プロジェクトより今回までの告知用ポスターは、渋谷組発足当初からの古参メンバーでグラフィックデザイナーである溝部雅一さんがボランティアで作成してくれました。溝部さん長きに渡りありがとうございました。 |
当日は曇り予報だったもののミニ縁日開催中はずっと晴天の酷暑で、4年近くブランクのある我々は暑さでふらふらになりましたが、保育所のみなさんにもお手伝いをお願いしてご参加頂き、ミニ縁日開始時間の30分ほど前には準備が完了。
2019年の4月の第34弾PJの際にご縁を頂いた、元宮城県地方振興事務所コミュニティ支援員の佐々木さんには、今回も南三陸から移住された方が多くお住まいの須江地区
近隣の保育所、小学校へのポスター配布や告知をお願いしました。今回はお孫さんと一緒に参加、お手伝いをして頂き、差し入れでキュウリの浅漬けまで頂きました。ありがとうございました。
さあ開始時間の14時になりました。渋谷組を代表して私からのご挨拶と、パチンコゲームやスーパーボールすくいの遊び方の説明をして、いよいよミニ縁日のスタートです。
毎回のことですが開始早々パチンコゲームの大当りで園庭中に子どもたち歓声が響き渡っていました。スーパーボールすくいでは3張り出したプールに大勢の子どもたちが群がり、かき氷屋さんには行列が出来ました。
パチンコゲームの景品台には子どもたちがたくさんで大賑わい。
この場所は保育所の先生方にお願いをしてお任せしていましたが、子どもたちへの対応で終始大変な忙しさでした。
今回は久しぶりにオリジナルの特大パチンコゲーム機のほか、2台のミニパチンコゲーム機と合わせ、計3台を出してたくさんの子どもたちに対応しました。2台のミニパチンコゲーム機は2016年4月に発生した熊本地震が製作のきっかけで、同年5月
熊本地震プロジェクト活動レポートと収支報告(2016年5月7日~8日)に県内の避難所数か所へ支援物資を直接届ける活動に続き、7月
熊本地震支援活動 第2弾PJ 活動レポートと収支報告(2016年7月16日~17日)には再訪して健軍東小学校ほか3ヶ所でミニ縁日を開催。東北での活動とは異なり、直接小学校へ訪問する形となり、在校児童数を聞くと400名前後と大変な児童数でした。当然1台のパチンコゲーム機では対応しきれなくなるので、急遽東京都在住の清野正幸さんに2台のミニパチンコゲーム機を作ってもらいました。素晴らしい出来栄えで登場から7年経っても立派に稼働していました。その節は無理なお願いを聞いて頂きありがとうございました。
1枚目の写真は完成前の調整で子どもたちに試し打ちをさせている清野さん。景品が無いと盛り上がらないだろうと駄菓子をたくさん買ってきてくれました。
2枚目は完成後熊本の小学校で活躍する2台のミニパチンコゲーム機。熊本競輪の熊本支部長の松尾さんや、この活動後に発病し急逝された熊本県八代市出身で青山 寿司屋のくま川の河野大将の姿も。大将とは私が30代半ばからの長いお付き合いだったので悲しく非常に残念でした。
それではパチンコゲームで大当りが出て、ピースサインをする子どもたちの笑顔です。
いつもながら子どもたちの笑顔にはたくさん元気をもらえます。
途中からあまりにも子どもたちの人数が多く、私ひとりではまったく撮り切れませんでした。撮影できなかったみんな本当にごめんなさい(苦笑)
今回のかき氷屋さんはイチゴ、レモン、コーラと人気のラムネ味の4種類を用意しました。
この日はとても暑かったから日陰で食べても涼めなかったかもしれませんね(笑)
最後の最後まで子どもたちがポイを持って夢中になっていたオモチャすくいは、約2,700個ほどのスーパーボール等を用意しましたが1つ残らずすくい取られ、プールの中は綺麗になりました(笑)
14時開始、15時30分終了の予定で開催した広渕保育所でのミニ縁日でしたが、開始から40分ほど経ったころにはパチンコゲームの景品がほぼ無くなり、1時間経つころには2,700個ほど用意したスーパーボールもほぼ空になるほど大盛況で、本当にあっという間の楽しい時間でした。
最後は佐藤先生をはじめとする保育所の先生方たちと佐々木さん、我々参加した実動部隊全員で恒例の記念撮影です。
東北でのミニ縁日開催最後となる今回は広渕保育所の子どもたちをはじめ、近隣の子どもたちがたくさん遊びに来てくれて、約4年振りに石巻の子どもたちと楽しく遊ぶことが出来ました。
保育所のみなさん、佐々木さん、暑い中で最後までお手伝いして頂きありがとうございました。
広渕保育所での活動を終え、次に訪問したのは石巻市に隣接する東松島市の老人ホームいずみの郷。
ホームには16時30分ごろ到着予定の連絡をしていましたが、予定通り到着しホールに向かうとすでに入居者のみなさんがずらりと着席していて、大急ぎで振舞い寿司丼の準備に取り掛かりました。前述の通り、銀座 鮨 きよ本の清本親方と豊洲市場 マグロ仲卸 樋長さんの長年のご厚意で、いずみの郷のみなさんに鮨 きよ本特製の寿司丼を召し上がって頂くことが出来ました。改めて御礼申し上げます。もちろん毎回50人前以上の寿司丼の仕込みをしてくれている石田さんにも感謝です。
盛り付けはいずみの郷のみなさん総出でお手伝いをして頂き、美味しそうに寿司丼の盛り付けが出来て、いよいよみなさんが楽しみにしていた寿司丼の配膳です。
みなさん、本当に美味しい、美味しいと言ってくれて我々もうれしくなりました。
中にはもうお腹がいっぱいだけど美味しいからマグロと穴子のお替りが欲しいと言って、更に召し上がる方たちもいて微笑ましかったです(笑)
美味しい寿司丼をたくさん食べて頂き、お別れの時間となりました。いずみの郷代表からホームのみなさんに10年に渡り渋谷組の訪問を受けてきましたが、この寿司丼が食べられるのも今日が最後となりますと説明をしたところ、「えーっ、もう食べられないの?」、「また食べたい!」等々、我々にとっては最高の褒め言葉をみなさんから頂きました。
お別れの前にみなさんと記念写真を撮り、ホームを代表しておばあちゃんからはお礼のお言葉とお土産まで頂きました。ありがとうございました。最後はみなさんが手を振って我々を見送ってくれました。
いずみの郷 代表の志摩さんをはじめヘルパーのみなさん。
本当に長い間我々の訪問を快く受け入れて頂きありがとうございました。
そして現在入居されているみなさん。
どうぞいつまでもお元気で長生きをして下さい。
ありがとうございました!
こうして初日は2ヶ所での活動を無事に終了することが出来ました。
2日目はミニ縁日等の活動は控え、コロナ禍中の2021年7月に震災遺構として整備され公開された大川小学校、大川震災伝承館、最後は北上川河口の内湾長面浦がある長面・尾の崎地区を訪問してきました。
4年振りの訪問なので震災遺構となって綺麗に整備された大川小学校を見るのは初めてでした。火気厳禁のためお線香は上げられませんでしたが、慰霊碑に二輪会の参加出来なかったメンバー宮崎謁子さん、鈴木直美さんから別途供花代ご支援を頂き、慰霊碑献花台に献花することが出来ました。ありがとうございました。
大川震災伝承館では今まで度々拝見してきた、津波で失われた街を模型で復元した大川地区の模型や、15時37分で時が止まったままのあの時計等々が展示されていました。
石巻市震災遺構 大川小学校
「失われた街」模型復元プロジェクト
思い返せば2011年6月に3.11から 百ヶ日忌の前週に、初めてこの場所を訪れました。全校児童108名のうち74名(未だ行方不明の児童が4名)もの幼い命と教職員10名が大津波の犠牲になりました。学校監理下では未曽有のことであり、当時初めてこの場所へ訪れた時に受けた衝撃と悲しみは、12年経った今でも鮮明に心に刻まれています。この翌々月には現在まで続くご縁を頂くことになる、大川小学校に通っていたある女の子のお母さんと、この場所で偶然お会いすることになり、10年以上の長きに渡った我々の支援活動は自然と石巻中心となっていきました。
このことは後述します。
『初めて大川小学校に訪れた際のブログ(2011年6月)』
2011年6月の大川小学校の様子。慰霊碑にはたくさんの献花が供えられていたが、その中にある女の子のお母さんが娘に宛てた手紙が埋もれていました。
写真の下段右は2011年11月のお母さんから娘に宛てた手紙。下段左、ふちに描かれた小さな顔はこの場所で大津波にのまれ犠牲になった74名の大川小の子どもたちです。
2011年11月の活動後に訪問した際に見せて頂いた、大津波の犠牲となった児童たちの鎮魂のため、校庭の裏山に植樹された『あすなろの木』は、10年以上の月日が経ち大きく育っていました。3枚目の写真コラージュの左上が大きく立派になった『あすなろの木』です。同行メンバーにあれがあの時のあすなろの木ではと教えてもらい、そうと分かった時は涙が溢れそうになるのを必死に堪え大川小学校をあとにしました。
『あすなろの木の植樹後に初訪問した際のブログ(2011年11月)』
次に向かったのは大川小学校に通っていたある女の子がお父さんとお母さん、そして2歳年上のお兄ちゃんと暮らしていた、北上川河口の内湾長面浦(ながつらうら)がある長面・尾の崎地区へ行きました。大震災後、この地区の方たちが多く住まわれていた石巻市三反走仮設住宅では幾度となく活動をしてきました。
新しく架けられた非常に大きな尾の崎橋を渡った先にある、小さなお稲荷様の脇から浜辺に降りると、大震災前はこの季節多くの海水浴客で賑わっていた長面海水浴場方面へ向かえます。かつては行き止まりとなる長面漁港まで海岸沿いに道路があったそうですが、今は無残に倒れた護岸壁が残り往時の面影は見られませんでした。
ここで、このブログの開始当初から見て頂いているみなさんはよくご存じの、ある女の子のことについてお話ししたいと思います。
女の子の名前は鈴木巴那(はな)ちゃん、3.11当時大川小学校に通う小学4年生で9歳でした。大津波にのまれ12年以上経った今でも行方が分かっていません。同じ大川小学校に通っていたお兄ちゃん、当時小学6年生の堅登(けんと)くんは1週間後に卒業式を控えていましたが、やはり大津波の犠牲となりました。
写真は鈴木家の玄関先に飾られている、絵本『 ひまわりのおか』の中の巴那ちゃんと堅登くん。
絵本『ひまわりのおか』は我が子を亡くしたお母さんたちが、子どもたちが避難しようとめざした場所に、ひまわりを植えはじめた。8人のお母さんたちの、わが子へ宛てた手紙や話をもとにつくられた絵本。ぜひ一度は手に取って頂きたい絵本です。
絵本『ひまわりのおか』
2011年6月に初めて大川小学校へ訪れ、8月に2度目の訪問。この時に大川小学校の慰霊碑の前でご縁を頂いたのが、堅登くんと巴那ちゃん兄妹のお母さんである鈴木実穂さんでした。
その時の様子は下記のブログに書き記してあります。
『宮城ツーリング。大川小学校に再び。』
堅登くんと巴那ちゃんのご両親である鈴木義明さんと実穂さんは、未だ行方不明で見つからぬ巴那ちゃんをあの日からずっと探し続けています。我々がお稲荷様の脇から降り立った砂浜はご両親が現在捜索を続けている浜辺で、この十数年間の捜索活動で手付かずの場所でした。かつてこの砂浜が賑わっていた頃、お弁当を持ってピクニックに出かけて行ってたそうです。
下記リンクの記事には昨年6月から大川震災伝承館に展示されていた、巴那ちゃんのランドセルが記事になっています。我々も鈴木家にお邪魔するたび何度も見てきたこのランドセルは、現在震災遺構となった石巻市門脇小学校に隣接する震災伝承交流施設 MEET門脇
https://311support.com/learn311/meetkadonowakiに展示されています。
来年は短期間でありますが防災体験学習施設 そなエリア東京
https://www.tokyorinkai-koen.jp/で展示されるそうです。首都圏の方はこの機会に『巴那ちゃんのランドセル』をご覧頂き何かを感じ取って頂ければと思います。
そして我々が巴那ちゃんランドセルを見るたびに願っていたのは、早くご両親の元へ帰って来て欲しい、この願いのみでした。
前述しましたが学校監理下での事故では、未曾有の犠牲が出た石巻市立旧大川小学校。全校児童108名のうち74名もの幼い命が大津波の犠牲となり、12年経った今でも行方不明の児童が4名もいます。大震災から1年を経過した頃には周辺での大規模捜索も打ち切られ、鈴木夫妻をはじめ行方不明児童の保護者の方たちは自力で捜索活動を続けられてきました。10年以上も大川小学校へ訪問してきた我々一同は、本当に見つかって欲しい、ただこう願い続けます。
記事『行方わからぬ娘のランドセル』
2011年8月の鈴木美穂さんとのご縁もあって、東北での支援活動は行方不明の巴那ちゃんが見つかるまでにしよう、我々メンバー全員同じ思いで活動を継続していましたが、2013年12月に渋谷組二輪会の中心メンバーで幾度となく被災地へ足を運び、被災した方たちに寄り添い活動していた、私と同い年の女性ライダー宮嶋そのみさんが、バイクで単独転倒事故に遭いこの世から旅立ちました。
彼女のことは以前2つのブログに書き記してあります。
そして2015年3月には渋谷組二輪会の重鎮メンバー横尾隆さんが闘病の末、この世を旅立ちました。横尾さんは当会の支援活動のベースとなったミニ縁日のアイデアや、東北各地と熊本の地で毎回大活躍をしてきた特大パチンコゲームを作って頂き、支援活動当初はそれまでボランティア活動や大勢の子どもたちへの接し方もわからない私の良き相談相手でもあり、人生の師匠でした。厳しさの中にもあたたかい心があり、本当に優しく面倒見の良い私の兄貴分でした。
良き相談相手であり、人生の師匠だった横尾さんのことは下記のブログで。
このように我々はわずかの1年少々の間に中心メンバー2人を失い、東北での支援活動終了のタイミングを逸しました。そして行方がわからないままの巴那ちゃんも出てきてくれない日々が続き、現在に至ったというのが本当のところだと思います。